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回天記念館展示内容

印刷用ページを表示する更新日:2020年6月22日更新 <外部リンク>

 

「回天」とは

人間魚雷「回天」とは

「回天」の誕生から実戦まで

「回天」に関する参考文献等

回天解説書『回天記念館と人間魚雷「回天」』(回天記念館等で販売中)

パンフレットのダウンロード

設立経緯

昭和37年7月、東京都において回天関係者が会合した席で回天顕彰会が発足し、搭乗員の遺品の収集と展示・維持するための記念館を建設することになり、40年10月から建設資金を集める活動が開始されました。
43年1月には、よりスムーズに活動を行うために周南市内に本拠地を置く回天記念館建設賛助会を設置。
同年11月20日には、寄せられた1,962万円を基に記念館が完成しました。
その後、展示スペースの拡張、石碑等の整備を行うために再度、回天顕彰会の有志により募金活動が行われた結果、4,733万円が集まり、これらを基に平成10年11月8日、現在の記念館にリニューアルされました。

回天記念館正面写真

昭和43年に完成し、平成10年にリニューアルされた回天記念館。正面入口までのエントランスには、回天烈士の名を刻んだ石碑が並びます。

展示内容

「回天」に関わる遺品・資料の展示に併せて、「回天」の歴史や時代背景、当時の生活などをパネル展示で紹介しています。
この他、研修室、視聴覚コーナーなどを備え、「回天」の心を通じ平和について学習する施設となっています。
なお、収蔵品は遺書、手紙、軍服、遺影や遺品など約1,300点を数えます。

記念館内写真1

「回天」の搭乗員と整備員たちの遺影や映画で使われたセットも展示されています。

記念館内写真2

基地を再現したジオラマなどもあり、当時の島の様子を容易に理解できます。

記念館内視聴覚コーナー写真

視聴覚コーナーでは、元搭乗員たちが「回天」のことを語る「時代の証人」をご覧いただけます。

展示資料紹介

黒木大尉の遺書ノート

大津島での「回天」の搭乗訓練が始まった2日目の昭和19年9月6日。
明け方、穏やかだった海面に風が出てきましたが、午前10時、仁科中尉が指導し上別府大尉が操縦する三号艇は訓練に出発しました。徳山湾口付近では三角波が立ち、潜水時は飛沫を上げるほどでしたが無事に訓練は終了しました。
午後4時に予定されていた樋口大尉が操縦し、黒木大尉が指導する一号艇での訓練は、同艇を前日使用したため夜を徹しての整備作業が予定時間になっても続いていました。
午後になると風はますます強くなり、うねりも出てきたため、大津島基地の司令官である板倉少佐は危険であると判断し訓練の中止を指示。
これに対し、黒木大尉は司令官に訓練の実施を懇願しましたが、仁科中尉からも「止めた方がよい」との発言があったことに対して、「天候が悪いからといって、敵は待ってくれないぞ」と怒鳴りました。参考文献はこちら※4
司令官は黒木大尉の気迫に押し切られ、波の影響を受けにくい徳山湾内での訓練ならと許可を出し、午後5時40分、逆風をついて「回天」は発進していきましたが、イルカのような背がきらりと光って沈む運動を起こした瞬間、水面下に潜り込んでしまいました。
板倉少佐や仁科中尉は追しょう艇などで一号艇を追っていましたが、向い波を受けて速力が落ちるなどして一号艇を見失いました。
その一号艇は浮上の予定時間になっても現れなかったため、徹夜での捜索活動が続けられましたが結局見つからず、翌朝午前9時過ぎに海面にわずかに気泡が発生しているのを発見することで一号艇の場所が確認されました 。
一号艇は、天候の影響で18mの海底に着底するという事故を起こし、艇の酸素が欠乏したことにより、二人は初めての殉職者となりました。
黒木大尉は息絶えるまでの間、ノートや艇の壁面に2,000字に及ぶ事故の詳細や改善点などを記載していました。
そのうち、手帳は記念館内の展示ケース内で公開しており、研修室入口の壁のパネルにもその内容が紹介されています。

黒木大尉手帳レプリカ写真

黒木大尉が一号艇の中で息絶えるまで事故などのことを書き綴った手帳(レプリカ)が展示してあります。

黒木樋口両少佐遺書パネル写真

黒木大尉と樋口大尉の遺書をパネルにしたものは研修室の入口壁面に設置しています。

池淵中尉の関連遺筆

池淵信夫中尉は志願して海軍兵科三期の予備学生となり、魚雷艇の第一期艇長講習を経て「回天」搭乗員を志願し、昭和18年9月、大津島基地に着任しています。
光基地に異動後、同い年の幼なじみと結婚する話が持ち上がりますが、19年10月2日付けの父親宛ての手紙では、結婚を勧める父親に対して、自らの状況を詳しく述べられない中で、その胸の内を綴っている様子が確認できます。
その後、幼なじみの方と結婚されますが、そうした生活の中で、奥様が中尉のことを気遣かわれて出された手紙や、休暇が取れそうだからと奥様を近くに呼び寄せるために出された手紙、その手紙を投函した後、中尉に何らかの都合ができたためか、予定日の2日前に奥様宛てに「メンカイデキヌクルナ」と打電されている電報などが展示されています。
池淵中尉は20年6月4日に大津島基地を出撃し同月28日に戦死されましたが、奥様と一緒に暮らせた期間は1週間程度だったとされています。

岩淵中尉自画像等の展示写真

岩淵中尉の自画像と書簡、電報などを展示しています。筆まめであった中尉の遺品の所蔵点数は60点を超えます。

橋口寛大尉の血書

橋口大尉は昭和19年10月末に大津島に着任し、その後、光基地、平生基地に異動しています。
その経験の長さ、技術的レベルの高さから、指導的役割を果たしておられましたが、本人は早くから出撃を希望されており、後輩たちが出撃するのをみて何度も上官に血書で嘆願しておられました。
そうしたことから、展示してある500字を超えるこの書からは、ご本人の並々ならぬ決意が伺えます。
しかし、8月15日、出撃する直前で終戦を迎えることになった大尉は、8月18日、「回天」の中でピストル自殺をされます。
大尉は、「回天」の搭乗員としてその道をともに進んだ同期生への切々たる思いを自啓録に残しておられ、遺書の最後には「さきがけし期友に申し訳なし。神州遂に護持し得ず」と記されていました。

橋口大尉司令官宛血書写真

出撃を嘆願する橋口大尉の司令官に宛てた血書は、長さおよそ150cm、幅3cmもあります。

再会した子守人形

昭和20年1月9日に出撃された塚本大尉の遺品の中に、当時の女学生の作品である人形と座布団があります。
このような作品の多くは、出撃の時に搭乗員が一緒に持参しますが、大尉は人形の好きな妹さんに届けたため、残されたものと思われます。
その人形には梶山美那江と製作者名が記載されており、その女学生が慰問品として送ったものと考えられていました。
平成14年4月10日、昭和20年に広島県立呉第一高等女学校に在学中だった43名が記念館を訪れましたが、その中に、人形の作者であった梶山さんが含まれており、実に57年ぶりに自身の作品と対面されました。
ちなみに、これらの作品は、当時、発行されていた「少女倶楽部」の付録、「少女手芸慰問人形集」をもとに作られたものでした。

慰問人形等写真

中央の印刷物は、昭和16年の正月に発行された「少女倶楽部」の付録「少女手芸慰問人形集」のコピー。

周南市回天記念館
定休日:水曜休館
Tel・Fax:0834-85-2310
〒745-0057 周南市大津島1960

文化振興課(文化振興担当)
Tel:0834-22-8622 Fax:0834-22-8428
〒745-8655 周南市岐山通1-1
E-mail:bunka@city.shunan.lg.jp