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岩崎想左衛門について

印刷用ページを表示する更新日:2017年9月22日更新 <外部リンク>

岩崎想左衛門重友(1598~1662)

岩崎想左衛門

江戸時代前期の治水家。

当時の鹿野上村(現:大字鹿野上地区)は土地が台地上をなしていたため、村内に流れる錦川の川底が低く、井戸も深く掘り下げなければ水がわき出ない状態であったため、村民は生活用水に苦しんでいた。
村の産業振興と住民生活の安定を考え、1651年から1654年までの足かけ4年の歳月と莫大な私財を投じ、村人とともに漢陽寺裏山から潮音洞を掘りぬき、村の水源を確保した。
水路完成後、約1.5haの荒地が水田となり、重友死去後はその子孫が中心となり、水路を約1.5km延長させ約60haの水田を開作。

潮音洞の名称の由来

初めのころは「掘りぬき」と呼ばれ、1750年頃作成の古地図には「切抜」と記載されており、「潮音洞」の名称は、水路完成後150年後頃と思われます。
命名者は当時の漢陽寺の住職が読んだ詩「観音経」の一部(「妙音観世音 梵音海潮音」=観世音の優れた教えは正常な心であり、すべての人々の心に海の音が響くように伝わる)から引用したと言われている。