回天訓練基地跡などの関連施設
回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)
現存している回天関連施設の中でも象徴的な施設である訓練基地跡。
元々は、九三式酸素魚雷の発射試験場として造られたもので、呉市の海軍工廠水雷部において製作された魚雷を海上運搬してここから発射し、その性能を鬣山(たてがみやま)山頂付近の魚雷見張所において確認するものでした。
この基地は、大分県で製作され船舶で曳航してきた8個の大型のケーソン(基地本体部に使用)と、大津島の現地で製作された5個の小型のケーソン(通路部に使用)とを組み合わせて建設されたものです。
大分県からのケーソンの曳航は、昭和13年10月23日から始まり、最後のケーソンの運搬は14年10月24日まで行われました。
19年9月以降は回天の訓練基地として使用され、魚雷発射口とは逆の位置に設置してあったクレーンで「回天」を吊り上げ、その横の海面に降ろし、基地の沖合いに設置されていたブイまで、横抱艇により曳航し、その場所から熟練度により3コースを使って訓練が行われていました。詳しくは「回天」の誕生から実戦までをご覧ください。
また2階には、基地司令官手作りの簡易机上襲撃演習機が用意されており、実地訓練がない搭乗員たちは、その装置を使って訓練の不足を補っていました。
なお、この施設は平成18年11月に、全国で唯一残っている人間魚雷「回天」の訓練基地であり、戦争遺産として貴重であるということから土木学会推奨の土木遺産に認定されました。
酸素魚雷の発射試験場として昭和13年から建設されたものです
2階部分に司令官手作りの演習機が置いてありました
またこのエリアには、「回天」に関する当時の画像も展示しています
回天運搬用トンネル
「回天」を整備工場から訓練基地までトロッコで運搬するときに使用されたトンネルです。
長さはおよそ250m、高さはおよそ4mあり、路面以外は当時のままの状態で残されています。
整備工場側からのトンネルの入口。この中を搭乗員と担当の整備員が一緒に基地まで歩いていきました
レールが複線になっているこの場所には、調整が完了した回天が右側のレール上に置いてありました
またこのエリアには、「回天」に関する当時の画像も展示しています
回天の運搬に使われた海岸ルート
「回天」を訓練基地まで運搬するルートは、トンネルが完成するまではトンネルの南側海岸に敷いたルートを使用していたと言われています。
現在、南側海岸は浸食が激しい状況にありますが、わずかにルートがあった痕跡を確認することができます。
海岸に沿って、ところどころにコンクリートの残骸が確認できます
運搬用のトロッコのレールを敷くために、岸壁が削られた様子が法面の勾配で分かります
電柱の様な円柱状の構造物が立っていたと推測される跡
回天整備工場
「回天」の整備工場(九三式酸素魚雷の整備工場)は、現在の馬島港から大津島小学校(休校中)にかけて建設されていましたが、そのうち、小学校敷地内には、変電所、危険物貯蔵庫、点火試験場といった施設が現在も残っています。
また、飛行科があった馬島港付近には、水上機格納庫の基礎跡や控所が、馬島公園には基地入口の門柱などが確認できます。
基地の中心的機能を果たしていた整備工場跡には大津島小学校が建っています。(現在は休校中)
回天整備工場跡に残る施設
変電所
島には整備工場が建設されたため、早くから本土からの送電線により、電気が送られていました
危険物貯蔵庫
予期せぬ爆発等を考慮してか、山の法面をくり抜いて造られています
点火試験場
整備工場付近で唯一の木造施設として残っている建物です
壁
秘密を確保するため、島民が通る道と工場との間はコンクリートの壁で仕切られていました
階段
炊事場などもある整備工場と回天搭乗員兵舎をつなぐ階段
貯水槽
基地内のいたるところに残る水槽。水の確保は重要な任務であったことが伺えます
その他の場所にある施設
基地入口門
整備工場全体の中央にあたり、現在は大津島公園の中央の南側にある門柱
水上飛行機格納庫
水上機の格納庫跡には基礎のコンクリートが残っています(現在は私有地のため立ち入り禁止)
魚雷見張所
鬣山の山頂手前には、酸素魚雷の性能を確認するための魚雷見張所が残っています
その他の戦争関連見学場所
戦艦大和の最後の停泊地
戦艦大和は昭和20年4月6日、徳山湾沖から沖縄に向けて海上特攻を行い、翌4月7日午後、アメリカ軍の艦載機の攻撃により鹿児島県坊之岬沖において沈没しました。
その大和が最後に寄港した場所は、馬島の南南東の沖合い3.2kmの地点であり、大津島基地からは直線距離で4.4kmの海面となります。
この地点に大和が寄港したことは、大津島基地の隊員も確認しており、魚雷見張所がある山からも良く見えたという資料も残っています。
円中に示したものが戦艦大和。その左下が野島、左上が馬島と洲島、ほぼ真上が徳山湾口に粭島となります(画像-1)
画像-1をアップしたもの。左下の大和は他の船舶に比べて一際大きく見えます(画像-2)参考文献はこちら※5
画像-2をさらにクローズアップしたもの。船体の形や主砲などで大和と確認することができます。参考文献はこちら※5
これらの画像は、工藤洋三元徳山工業高等専門学校教授が、平成13年3月、アメリカの国立公文書館で発見されたものです。
画像の撮影日時は4月6日の午前9時47分で、沖縄に向けて出撃する6時間前のものとなります。
馬島の南側から大和が停泊していた海域を望む。左端に見えるのは洲島
春にはツツジも咲き、このエリアはウォーキングには最適の場所です
砲台山
この施設は、徳山港及び付近の軍事施設を守るために、昭和16年11月から17年5月の間にかけて大津山山頂(標高186m)に建設されたものです。
19年当時の施設等の概要は次のとおりとなっていました。
装備
12.7cm連装高角砲:3門
13mm単装機銃:1門
150cm探照灯:1機
兵員
士官:1名
准士官:2名
下士官・兵:51名
合計:54名
登山道を登ると施設跡の入口にあたる場所に、レンガ造りの指令所跡があります。
高角砲を設置したコンクリートの跡。3門とも同じように残っています。
この場所からは北側の一部を除いてほぼ360度、瀬戸内海が見渡せます。