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児玉源太郎ゆかりの地

印刷用ページを表示する更新日:2017年5月10日更新 <外部リンク>

児玉家屋敷跡・児玉大将産湯之井戸

児玉源太郎は、嘉永5(1852)年2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。当時使用していた井戸が保存されており「児玉大将産湯之井戸」の標石があります。
児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5(1858)年に浅見栄三郎の次男、次郎彦を源太郎の姉久子に迎えて家を継がせました。次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、「正義派」の一人として活動したため、元治元(1864)年8月12日早暁、「俗論派」によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。
次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、「正義派」が政権をとるや、慶応元(1865)年7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
その後、源太郎は元の屋敷跡を買い戻して、明治36(1903)年に郷里の後進育成を願い近代的な私立図書館「児玉文庫」を開設しました。しかし、児玉文庫は、昭和20(1945)年、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。

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産湯の井戸

児玉神社

児玉神社は、大正12(1923)年に地元有志の発起により、児玉源太郎を祭神として創建されました。社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものです。
境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒章之記」、歌碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。

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児玉神社

浅見安之丞屋敷跡・児玉次郎彦誕生之地

児玉次郎彦(源太郎の兄)は、浅見栄三郎の次男で児玉家を継ぎました。文久2(1862)年から周旋方として京師で活躍し、帰藩後は藩の大目付役として藩政の重責を果たしました。
その後、興譲館の助訓役兼寮長となり、尊王攘夷のために活動しました。元治元(1864)年8月9日に河田佳蔵らが「俗論派」の富山源次郎を襲撃した際の一味とみられ、8月12日早暁に「俗論派」のために、自宅で暗殺されました。時に23才でした。

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児玉次郎彦誕生の地

タイワンゴヨウ

この木は、児玉源太郎の偉業を末永く称える記念樹として大正14(1925)年に樹高約2メートルの幼木数本が台湾から取り寄せられ児玉神社に植えられたものです。
昭和37年の都市計画により街路が改修される際に、伐採の話が起こりましたが、そのまま残すことになりました。街路がこの部分だけ狭くなっているのはそのためです。
タイワンゴヨウは日本に植栽された記録はなく、マツ属の分類、利用などの研究のうえで、このように熟成した巨木の存在は、学術的に貴重なものです。

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タイワンゴヨウマツ

陸軍大将子爵児玉源太郎卿遺髪塔

墓所の中央が児玉家累世墓、向かって右側が源太郎の兄次郎彦(幕末の政争で没)・久子夫婦の墓で、左側が児玉源太郎の遺髪塔です。
遺髪塔の側面には、明治39年7月24日に死去、同7月28日に東京青山に葬られ、同9月8日この地に遺髪が納められたことが記されています。
現在、源太郎の墓は東京都府中市の多磨霊園にあります。

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遺髪塔

児玉源太郎揮毫「皇威輝四海」碑

この碑は、明治30(1897)年に戸田村が建てたもので、文字は児玉源太郎の揮毫によるものです。
高さ1メートル85センチ、幅1メートル20センチの自然石に、「皇威輝四海」(こうい しかいに かがやく)と彫られています。裏面には、戸田村から日清戦争(1894~1895)に従軍した村民30名の氏名を記しています。

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桜田八幡宮境内の石碑

児玉源太郎像

児玉源太郎像製作委員会が、児玉源太郎の顕彰を目的として児玉公園の一角に設置することとし、平成23年7月23日に除幕式が行われました。
オリジナルの像は、国立台湾博物館が所蔵する新海竹太郎作の像です。

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児玉源太郎の銅像

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