徳山開府
印刷用ページを表示する更新日:2017年5月10日更新
ふるさとの歴史を、未来へつなぐ
毛利輝元の次男・就隆は、元和3(1617)年に都濃郡・熊毛郡内の三万石あまりを領地として分け与えられました。慶安3(1650)年、就隆は交通の便に恵まれた野上村に館を移し、地名を「徳山」と改めました。
徳山は城下町として発展を始めましたが、三代藩主元次のとき、万役山事件をきっかけに本藩と争ったことから、正徳6(1716)年に幕府の命令で藩が取りつぶされることになりました。幸い、家臣や領民の献身的な運動により3年後に藩の再興が認められ、改めて城下の整備が進められました。
藩主の館は現在の文化会館辺りにあり、桜馬場より北には家臣団の屋敷が建てられました。現在の銀座付近を中心に町が栄え、街道には多くの人々が行きかいました。新田の開発や、和紙など特産品の生産によって産業が発展するとともに、藩校鳴鳳館が設けられるなど、教育活動も盛んでした。
明治維新後、工業や港の発展とともにまちは繁栄を続け、今に至ります。城下町としての面影は戦災によって失われましたが、これからも歴史を大切にしながら、新たなまち「周南」の発展をめざしています。
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