児玉源太郎
児玉源太郎は、嘉永5(1852)年閏2月に、徳山藩士で馬廻り格であった児玉家の長男として生まれました。
元治元(1864)年、藩内での幕府との関係を巡る対立により、義兄・次郎彦が自宅玄関先で暗殺され、児玉家は断絶となりましたが、翌年、藩論の転換により源太郎は児玉家再興を許され、新たな屋敷が与えられました。
その後、戊辰戦争では藩士で編成された献功隊の半隊司令士として箱館の戦いに参加し、のちに陸軍に入り西南戦争などで頭角を現しました。
明治25(1892)年には陸軍次官となり、日清戦争前後の様々な組織の長として、特に検疫事業において、後藤新平を部下として国内への伝染病の侵入を防ぐなど、手腕を振るいました。
明治31(1898)年には第四代台湾総督となって台湾の近代化に努めるとともに、第四次伊藤内閣では陸軍大臣、桂内閣では内務大臣及び文部大臣を一時兼任するなど政治家として重きをなすとともに、明治36(1903)年に参謀本部次長、翌年の日露戦争では満州軍総参謀長として重任を果たしました。
明治39(1906)年には参謀総長、また南満州鉄道株式会社の創立委員長となって、さらにその活躍を嘱望されていましたが、同年7月に55歳(数え年)で急逝しました。
軍人や政治家としての活動だけでなく、郷土を大切に思い、生家を買い戻して私設図書館「児玉文庫」を創設し、文化の発展にも大いに貢献しています。
昭和20(1945)年の戦災により焼失した児玉文庫のあった生家跡は、現在は産湯の井戸などが残る「児玉源太郎生誕の地公園」となっています。
また、大正12(1923)年に児玉源太郎を祀り創建された児玉神社には、後藤新平揮毫による石碑などが多数あるほか、中央図書館内に児玉源太郎と児玉文庫に関する展示コーナーがあります。
(1)児玉源太郎ゆかりの地、略年譜 [PDFファイル/3.84MB]
(3)周南市立図書館のページ<外部リンク>(郷土資料ギャラリー:児玉文庫と児玉源太郎)
(4)観光交流課のページ (児玉源太郎&徳山藩ガイド・周南市ゆる旅のススメ)